
私の勤務する老人ホームには人生の大先輩ばかり。日々、教えられる事が
多い。その中に88歳になる女性の入居者がおられる。いつも笑顔でふっくら
としたお顔は、それだけで人を引き寄せる。ヘルパーである私は、時々、手
が空くとこの方の居室に行き、いろんな話を伺う。
7、80年も前の郷里での子ども時代の思い出話は、台詞を交え、まさに光景
が浮かんで来るような活き活きとしたものである。中でも自分の子育て論に
及ぶと熱がこもり、私はその身ぶり手ぶりに笑いこける。又、痛ましい事件
を伝えるテレビのニュースを見ては、世を嘆き、人の道を説く聡明な方でも
ある。
時には「人間は、生まれた瞬間から死に向かって行く・・」と哲学じみる。
ある時、お彼岸を前にお供物や仏前、墓前でのお参りの作法を尋ねた。
「お参りする時は声を出しなさい。
おはようございます、元気です。有難うございます。行ってきます。
何でも良いよ。その時の自分の気持ちを素直に言えばいい。ご先祖様は傍
にいて、ちゃんと聴いておられるよ。返事はなさらないけどね。
私は小さい頃、同居していた祖父母達からこのように教わったよ」
そう答えてくれた。
これを聞いて、それ迄は人に聞こえては気恥ずかしいと仏壇の前で合掌し、
心の中だけで思いを唱えていた私も声に出してみた。
「朝ご飯です」
「庭に咲いた水仙ですよ」
「仕事、今日も頑張ります」
「公園の桜が満開ですよ」
時折、主人と出向く墓前でも
「暫くでした」
「いいお天気ですね」
「お花をいっぱい持ってきましたよ」
と話し掛ける。すると、不思議、何だか本当にご先祖様と向き合って話して
いるような気がしてくる。一瞬、家族が増えたような気にさえなって笑みが
生まれ気持ちが良い。主人も苦笑しながら見習う。
そんな感想を早速この方に伝えると、大層喜ばれた。
「それはよかった。次はね、そんなあなた達の姿を見て育つ子ども達が、
そして孫達が、それを受け継いでご先祖様を大事に大事に守っていってくれ
るよ」
思わぬ褒美を頂いた。
きっとこの方も、そうして仏前や墓前で手をあわせる祖父母や両親の姿を
見て育ったのに違いない。私にしてみれば、この方の祖父母達は、見ず知ら
ずの過去の人。でも、孫であるこの方を介して貴重な贈り物を私に下さった。
むろんお礼を言う術はないが、心から感謝している。
人には、さまざまな出会いがある。その中で何の気負いもなく素のままで
接する時、人は時として過去のどなたかの温かい御心に触れ、やがては自分
も後世の誰かへと心の橋を繋げていく役割を担っているのかも知れない。
そんな事をこの方から学んだ。
心が膨らむのを覚えた。
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