
用事で築地に行った折、久し振りに本願寺に寄った。
お参りをすませた後、大きなものに抱かれた安らかな気持ちになり、しば
らく本堂の椅子に座っていた。すると、かわいい子どもの声と共に、私の
側を四世代の女性が通り過ぎた。
三歳くらいの女の子とその母親、祖母、曾祖母といったところだろうか。
母親に抱かれた女の子が、内陣に向かって小さな手をあわせると、すかさ
ずおばあちゃんがデジタルカメラを構えた。そんな光景をみる曾おばあち
ゃんの瞳は限り無く優しい。仏間にあがった子どもは、母親の膝の上でお
数珠を手にして神妙に読経を聴いている。
本堂に溢れる念仏と線香の匂いが、遠い記憶を呼び覚ました。
父は熱心な仏教徒だった。家には大きな仏壇があり、早朝からお坊さんに
ひけをとらない抑揚のあるリズムをつけた読経が、家中に響いた。
小学生の私は兄とともにほとんど毎朝つきあわされた。意味はチンプンカ
ンプン。しびれる足。何度も何度も、左右の親指をそっと組み替えた頃、
「あなかしこ・・・」というフレーズが耳に飛びこむ。やっと解放される。
そう思うと太陽がぱっと照り輝き、体中の細胞が活性化するようだった。
ところが、そんなことでは終わらない。父は御文章の最後までしっかり唱
える。「あなかしこ」という文句はいつ果てるとなく続き、我が頭は再び
迷宮へと迷い込む。
私の記憶の中で、父は揺るぎない信念を持ち、腹に力を込め、ぴしッとし
た姿勢を崩さない明治の男だった。
小学生の私にはそんな父が近寄りがたく、煙たかった。情けに篤く、面倒
見の良い面に尊敬と魅力を感じながらも、説教をされると、押し付けがま
しいと反発するばかりだった。だが、現在同じようなことをしている自分
を発見して困惑することがある。そんな娘を見て、父は仏壇の奥で苦笑し
ていることだろう。
実家では、線香に燻されて深みを増した仏像が柔らかな光明を放っていた。
今にして思う。その前で、妻に先立たれ、事業の悩みと三人の幼い子ども
を抱え込んだ父の心情はいかばかりであったろう。
仏さまからは生気に満ち、力強く、尊い、慈愛に満ちたエネルギーが放た
れている。耳元で父の念仏もする。磨き抜かれた声だ。その念仏に守られ
ている気がして胸がキュンとなった。時間を引き戻すことはできないが、
いつでも思い出すことはできる。嫌がっていたこともある仏壇だが、今は
見えない世界を信じる力を与えてくれたことに感謝している。
本堂の読経は終わったようだ。
「お撮りしましょうか。」
駆け寄って声をかけると、おばあちゃんはカメラを渡して丁寧に挨拶した。
内陣を背景に、ちょっとポーズをとった四世代が一斉にこちらに笑いかけ
る。お母さんに抱かれた女の子はおしゃまな笑顔。手には上手に数珠が握
られている。母娘をガードするように祖母と曾祖母が左右に寄り添う。
子どもは大切に育てられているようだ。みんないい顔をしている。
昔から日本人は、仏壇を中心として家庭の絆、感謝、礼節といった美しい
精神を、次世代に継承して来たのだ。
レンズ越しに見つめる私は、三人の愛情を一身に受けている女の子に焦点
を当てた。仏さまをはじめおばあちゃんや曾おばあちゃんに守られている
この日があったことを、大人になっても思い出しますように、と祈りなが
ら心を込めてシャッターを押した。
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