響きあう詩

寡黙な父の背中 鍛治 勝 36歳 東京都

 響きあう詩

毎朝父は、お仏壇に手を合わせてから、出勤していた。その習慣を一日
も休むことはなかった。

 コップ一杯の牛乳でパンを流し込むような、慌ただしい朝にあっても、
父はお仏壇の前にきちんと正座をし、リンを鳴らして拝んでいた。新聞に
目を通す暇も惜しんで手を合わせる父の背中を見ながら、私は育った。

 小さい頃はそんな父に、たまにはゆっくり、家族みんなと朝ご飯を食べ
ていけばいいのに、と思っていた。父はいったい何をあんなに熱心に拝ん
でいるのだろう、と不思議な気がした。

 直接、訊いてみたことはなかった。真剣な眼差しで拝む父を目にしながら
私は小学校を卒業し、中学に上がった。

 そんなある日のことだった。私はふと、まぶたを閉じて拝む父の姿に目を
留めた。高校受験をひかえた、蒸し暑い八月初旬の朝だった。夏休み中の
私は、一人、食卓につきパンをかじりながら新聞を広げていた。母はゴミ出
しに表へ出ており、隣の部屋では父がいつものように蝉時雨の中、お仏壇
を前に拝んでいた。

「どうか、勝が高校に受かりますように...」
 ぼそぼそとつぶやく父の声が細く聞こえてきた、パンを握ったまま私の手
は止まり、口を動かすことができなくなった。

 なおも、耳を澄ませていると、父は家族の名前を唱えながら、全員の健康
と無事をお祈りしていた。
 そうか.....。不意に目頭が熱くなった。

 今までは、父はこうして、毎朝、熱心に仏前に座り、リンを鳴らし線香を上げ、
家族みんなのために拝んでいたのだ。自分のことではなく、家族のために...。
 愛する家族のために時間を割いて、熱心に手を合わせていたのだ。

 改めて、私は父の横顔を見つめた。ワイシャツにネクタイをきちんと締め、背広
を着た父の額からは、大粒の汗が流れた。ぽたぽたと、それは畳に落ちて吸い
込まれていった。私は震え、のどもとに熱いかたまりが込み上げてきた。

 祖父は、父が十八の時に亡くなった。まだ高校生だった父達一家は家を手放し、
あちらこちらを転々とする日々が始まった。長子であった父は大学をあきらめ、
高校卒業と同時に就職し、妹の学費を稼ぎ、少しずつ、借金を返していったという。

 父は文句一つ言わずに一家を支えた。母によれば、そんな環境の中にあっても、
父はお仏壇に手を合わせ、拝み続けていたそうだ。自らの苦境を恨むことなく、
家族みんなの幸せと健康を祈り続ける日課を止めることはなかった。

 寡黙な父は、私たちに向かっては何も語ろうとしない。ただ黙ってお仏壇の前に
座り、線香を上げる。

 以来、私は父がリンを鳴らす音を聞き付けると、一緒に心の中で手を合わせ、
そっとこう唱えている。

「どうか、父をお守り下さい。父の健康をお守り下さい。」と。

(年齢など応募当時のままです)


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